涼宮ハルヒの憂鬱

始まる前、最上級の期待を込めていた本作品。
終わってみると、その期待以上の作品だったことを思い知った。


色々なところで色々な人たちがこの作品に関して語っているので、もはや私が口をはさむ余地もないように思うが「私から見た涼宮ハルヒの憂鬱」について書かせてもらいたいと思う。


まず、この作品をはじめて知ったのは原作小説。実家に帰省した際にid:u-glenaに第一巻だけを見せてもらった。
「空想具現化」というのがこれからのライトノベルのキーワードとなりつつあるということをぼんやりと考えていた時期だったので、「少女の考えひとつで世界全てが作り変わってしまう」という設定に、谷川流の眼の付け所が非常にいいな、と感じたことを覚えている。
その後少年エースでマンガが始まるが黒歴史入り。原作はキョンの一人称文体であったり主人公の涼宮ハルヒの行動がイタすぎるなど、小説から映像に焼きなおすのには相性が悪かった。この原作は明らかに映像化しにくい作品だったのだ。


ところで京都アニメーションを初めて知ったのはthe SoulTaker〜魂狩〜の仕上げだった。その時にはとりたてて印象は無かったのだが、クレヨンしんちゃんなどでその評価を不動のものとした。その後、テレビ版Air製作。その作画のクオリティーもさることながらゲームシナリオをきちんと落とし込んでおり、さらにその演出が優れていることに度肝を抜かれた。ゲームはやったことが無いがあれだけのファンがいることも納得できる、とにかく素晴らしい出来だった。


その京都アニメーション涼宮ハルヒの憂鬱をやるという。不安はあるものの期待は高まるばかりだった。前回の期待度ランキングでも1位にしている。


始まってからは皆さんのご存知のとおり。
アニメ感想系サイトはハルヒ一色になったし、CDとDVDは売れまくるし、平野綾HEY!HEY!HEY!に出るし、もはや収拾のつかないとんでもないことになった。これはもはや「社会現象」と言っても良かったのかもしれない。


なぜ、ここまでスゴイことになったのか。
ホームページに仕掛けが色々あるとか、アニメ誌にも予告が載らないとか、そういう周辺的な事象がこの原因になっていることは間違いない。
しかし私が言いたいのは、別にそんなものが無くてもただただアニメを見ているだけで楽しかった、ということだ。中身がしっかりしているからこそ、そういった小ネタも威力を発揮してくる。そう、アニメ涼宮ハルヒの憂鬱は純粋にスゴイ作品だった。
アニメの感想を色々書いているが、この作品に関してはもはや突っ込むことが出来ないレベルだった。非の打ち所が無かった。


さらに私が好きだったのは「作っている人たちがイキイキしている」ということが伝わってきた点だ。最初にエンディングのダンスを見たときに感じたのは「この人たちはanime史において何をやったら新しくて面白いことかを熟知しており、さらにそれを現実にしてしまえる技術力をもっている」ということだった。頭もいいし体も動く集団。文章にしてしまうと簡単なことであるが、この2つが揃うのがいかに難しいことか・・・相変わらず画を作ることには特化している宮崎駿。しかし、最近は明らかにネタ切れ感がある。逆にそれとは対照的に、今度公開される宮崎吾朗ゲド戦記は伝えたいメッセージはあるのだが「画がついてこない」といったことになるのではと危惧されている(あくまで予想だが)。
スゴイことを思いつくし、それを実現する力もある。こんな条件で仕事を成し遂げるのはなんとも楽しいことであろう。


そういえば、最近アニメの原作者がキレていることが多い。みんなお金を稼ぐために色々な小細工を施そうとするが故のことなのかもしれない・・・アニメは企業が作るものであり、それはある意味当然のことである。
どの製作会社もいい原作を探してきて人気声優に声をやらせてなんとかお金になるように努力している。しかし、その途中で最初にあるはずの「面白い作品をつくろう」とする流れが絶たれてしまっていることも多いように感じるのだ。


しかし、今回の涼宮ハルヒの憂鬱に関してはちょっと事情が違う。
ただ「作品としてスゴいものを作る→スゴい売れる」という、結果だけ見れば非常に単純なことに帰着しているのである。
この作品によって、それぞれのアニメ製作会社に「面白い作品を作れば単純にお金になるのだ」ということを思い出してもらえたら嬉しい。
そうすれば、当然日本のanimeはもっと面白くなるはずだ。未来は明るい。